人気ブログランキング |
<   2007年 11月 ( 2 )   > この月の画像一覧
Not Nobody Knows
路上ライブがやっていれば暫く佇んでみたり、黒山の人だかりができていれば吸い寄せられてみたり、バーが賑わっていればそれだけで幸せな気分になったり、乗った電車の隣の人の会話で夕飯のおかずが決まったり。

現代の都市生活者である「私」は見知らぬ他者によって多分に規定されている。
その点で我々は既に「非家族と暮らして」いると言える。
そのような都市生活の醍醐味が時代と共に増幅される一方で、郊外住宅地は、建蔽率や合理性によって構築された建築物がばら撒かれ、微妙なスケールの空地がだらだらと続く味気ない街になった。

是枝裕和監督の「誰も知らない」という映画がある。
東京で現実に起きた事件をモチーフにしたこの映画を何度か見ると、タイトルの「誰も」は隣人関係の希薄さを物語っている事に気づく。
円満だと思っていた隣の改定が実は出生届も出されていない子供を持つ母子家庭で、その母親が子供を置き去りに男の元へ行き、挙句の果てには幼女が死んでしまったとしても、今の日本の郊外の構成ではその事実を「誰も知らない」のである。
「誰も知らない」のような事件は決して他人事ではない。
事実、僕は東京郊外の今の家に13歳の頃から住んでいるが、未だに隣人の名前を知らない。ましてや家族構成など知る由もない。
だから、この「Nobody Knows」な郊外で「Not Nobody Knows」な人間関係を街のスケールで構築しなければならないと強く思うのだ。


名もなき郊外において、大いに主張する程度の規模をもつこの建築であるが、そのスケールがもたらす価値とは「愚かでわがままな僕らに対するPunishmentとしての建築」という事である。
つまり、それは「Nobody Knows」な郊外を作り上げ、それを甘んじて受け入れてきた住人たちに対する罰である。
細く、不自由な建築によって、外に出された生活行為によって強制的に他者と規定し合いながら、それを自発的なものと捉え、Happinessの中に暮らす住人たち。そして、今の郊外の構成では決して手に入れられないそのHappinessに強烈な憧れを抱く街の人々。
その届かない憧れこそが、罰なのである。

バリアフリーと叫ぶ前に、困っている人を見かけたら声をかけろ。老人が重い荷物を持っていたら代わりに少しだけでも持ってやれ。
この建築に住む者、それに憧れる者たちは、「他者とのつながり」を希求するが故、それを自発的にやるようになるだろう。
この建築による罰は、今の「無関心」な世の中を少しだけ変えてくれると僕は思うのだ。

e0126140_18443130.jpg




初期のイメージから突き進み、TEPCOのコンペを提出した。
課題をやる時に、何か自分なりの批評精神を持ちたいと思っている。
今回の場合は、「誰も知らない」という映画を切欠に「非家族と住む住宅」は現在、最も非家族と住んでいないと思われた郊外住宅地に作るべきだという観点から出発し、「Nobody Knowsな郊外住宅地においてNot Nobody Knowsな人間関係を構築する事」を目標に設計を進めた。

前回日記を書いた頃は、この辺を思いついた所だったのだけど、その後はこの建築を作るとしてその存在意義はどこにあるのかという事を考えていた。

それで出てきた宗教的な直線と単調な反復であるが、このスケールは街との関係から決められたものである。
最初は左側の六戸のみの設計をしていたが、徐々に僕らの批評精神からすれば、街との関係というのは開口がどうとか、配置がどうとか、そういった繊細なものではなくて、もっとパンチがあるものでなければならないと思ったわけだ。
Nobody Knowsな街において大いに主張する規模で幸福に「非家族と暮らしている」住人たちが居て、彼らは実は建築の不自由さによって半ば強制的に他者との関りを持っているのだが、僕らの物語の中では彼ら自身はその他者との関りを自発的なものと思い込んでいる。
そして、その幸福な関係を目の当たりにしているNobody Knowsな街の人々はそれに強烈な憧れを抱く。しかし、彼らが甘んじて受け入れてきた郊外住宅地の構成では、その憧れには決して届くことはない。
それがPunishmentであると僕は名づけている。

しかし、物語は否定的なままでは終わらない。

「自発的な他者との関り」に幸福さを感じた街の住人や街の人々の心自体が変わる。
すると彼らは建築という不自由さから解き放たれた街の中でも幸福な関係を積極的に求めるようになるのである。

結局、建築の住人、街の住人両方がNot Nobody Knowsな関係を愛すべきものとして受け入れるという所に話の帰結があるのだ。

まあ今回、考えていた骨子はこんな感じだろうか。

ダイワハウスでは自分のやりたい事をテーマに関係なくやりすぎた感がかなりあったが、今回は自分としてはかなり全うにテーマに即して提案したように思う。

自分としては結局模型に走ってしまって、プレゼンボードの絵がダイワハウスに比べるとキレ自体はないという自己感想なのだけど、テーマ設定と建築空間は良いと思うし、何よりしゃべりたくて仕方がないので、二次審査に拾ってもらえないだろうか。。。
by machine1984 | 2007-11-30 17:13 | 建築
「誰も知らない」

是枝裕和監督の「誰も知らない」という映画がある。
柳楽優弥があのタランティーノ監督をして「彼の目が忘れられない」と言わしめた作品だ。

是枝裕和は元々ドキュメンタリー番組の演出家で、「誰も知らない」もドキュメンタリー番組として観てみると、なるほど納得のクオリティである。現実世界の僕らの会話はまるで抑揚のないものだ。
僕が分かる程度の幾重にも重ねられたストーリーの妙や、台詞はどうかと思うけど、柳楽優弥の目はひときわ異彩を放っている。

僕が映画批評をしても仕方ないので、話を建築的に見てみる。
東京で実際に起きた巣鴨子供置き去り事件をモチーフにした、この有名な映画を二回くらい観てみるとタイトルの「誰も」は明らかに近隣の人間とのコミュニケーションの希薄さを表している事に気がつく。
円満な家族だと思っていた隣の家庭が実は出生届も出されていない子供を何人も持つ母子家庭で、その母親が子供を置き去りにしたまま男の元へ行ってしまい、挙句の果てには幼女が死んでしまったとしても今の日本の住宅街の構成ではその事実を「誰も知らない」のである。

物語のテンションは交差点に置かれた一台の公衆電話を介して読み取られる。
ある時は気にも留めず、ある時は母親が異なる姓で電話に応答し、ある時は10円足りずに連絡が取れず、またある時はつり口から10円を拾う。
Public Spaceでありながら建築的な要素は何も描写されてこない。建築は期待されていないとも読み取れる。

しかし、この映画の批評精神はとても建築的な問題なのだ。


都市生活の魅力は「他者との出会いである」とは良く言ったもので、その意味で都市に住む人は既に「非家族と暮らして」いるように思える。この場合の他者とは知り合いであると同時にStrangerでもある。
確かに、自分の価値観が知り合いによって規定されているのと同じように、現代の都市生活者である「私」は見知らぬ、気にも留めぬ他者によって知らず知らずのうちに規定されている。
路上ライブがやっていれば暫く佇んでみたり、黒山の人だかりができていれば吸い寄せられてみたり、バーが賑わっていればそれだけで幸せな気分になったり、乗った電車の隣の人の会話で夕飯のおかずが決まったり・・・。否定的には満員電車で身動きが取れないなんていうのもそうだ。

そんな都市生活の醍醐味が日本の経済成長と共に増幅されると共に、住宅は経済的な合理性によって、反復された住戸の並ぶマンションと建蔽率と北側斜線と隣地境界からのセットバックによってほぼ配置が決まり微妙なスケールの空地がだらだらを続く郊外住宅が広がる事となった。

「誰も知らない」のような事件は決して他人事ではない。
確かに僕は今の家に中学2年生の頃から住んでいるが、隣の人の名前を知らない。ましてや家族構成なんて知る由もない。白骨遺体が見つかるような事件があったとしても見つけるのは少なくとも僕ではない。
確かに僕は隣の人によって何も規定されていない。

例えばAlways 三丁目の夕日では、堤家と吉岡家は常にInteractionを起こしていた。そしてそれは常に道の上であった。何故、道なのかと言えば、町屋にはあの微妙な空地もなければ前庭もない。つまり道しかありえないというだけの話だ。6mくらいの幅がInteractionを喚起するのにちょうどいいスケールであるとも言える。

人間、Physicalに他者によって規定されるというのも悪いことではない。僕等の批評精神からすれば都市生活を引用する方法は大いにアリだ。

まあ要は今回のTEPCOについて考えていて思ったことである。

むにゃむにゃ。
by machine1984 | 2007-11-06 01:55 | 妄想



渡辺典文 / Norifumi Watanabe The University of Tokyo Graduate School of Engineer Architectural Department Master Course
by machine1984
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30